

神道大教の前身ともいうべき明治政府の管掌による「大教院」 は、明治6年5月21日、麹町紀尾井町紀州長屋に仮大教院が設けられ、後日芝の増上寺に移った。神道大数の歴史はここにその一歩をふり出したということができよう。
もっとも、当時の大教院は、政府教部省が神道(皇道)の宣教活動強化のため、その中央機関として設けたもので、いわば神道の総本山として神道発揚に歴史的な役割を果たした。
しかし、組織的には、神仏両面の教導職を擁していたため、内部矛盾が激しく、早くも8年5月に解体を余儀なくされた。
政府は公的な国教布教の機関を廃止して布教のことは個々の教導職に任かせることになり、こうした政府の動向を察知した神道側は、大教院に代る独自の布教機関を設置すべく準備した。同年3月、許可を得て有楽町二番地に創設きれた「神道事務局」がそれである。
「神道事務局」は明治19年1月、本局と改名したが、所在地的にはなかなか定着をみず、14年の4月には有楽町から駿河台北甲賀町へ、22年1月には京橋区築地へ、築地から芝桜川町に移り、27年には伊皿子聖坂稲葉管長邸に移った。

駿河台北甲賀町跡

伊皿子聖坂稲葉管長邸
この頃、事務局時代から神殿も転々と移換していては御祭神に対しても大変恐れ多いことであるから聖地を求めて、恒久的に鎮祭すべきだとする意見が多くの人々から出た。
その結果、浄財をもって、麻布笄町の今日の地に明治29年、竣工落成をみたわけである。
戦災で焼失するまでの本局の施設はなかなか立派なものであった。


20年5月、戦災のため、御神霊は大山の修養道場神殿に遷座されていたが、23年、森田七代管長の時、造営を行ない、10月神殿の完成をみて御神霊は還御されたのである。
現在の大教院は、昭和35年着工同37年完工をみたもので、時代にマッチした外部鉄筋、内部木造の神殿は、その壮厳なる偉容を麻布の丘に輝やかしている

(東京ライフ社刊 東京ライフ「明治百年と神道大教」より転載)