明治百年を契機として、わが国にも次代への反映に向かう一つの転機をつかもうとしている。この時期に当たり、文字通り明治百年を歩んできた「神道」の歴史は、長い封建制から脱した日本民族の精神史である。昭和維新といわれる今日、神道大教の歴史を概観することにより、明治百年の神道史をひもといてみよう。

封建制から近代文明への夜明け

神道総裁 有栖川宮幟仁親王

神道総裁 有栖川宮幟仁親王明治維新は日本の近代社会への第一歩であり、300年にわたり欝積された民族の要求不満の爆発点でもあった。徳川幕府は幕府維持の最大網目として、封建制度による幕府中心主義と日本孤立主義を持って来た。而し大名は参勤交替や幕府の土木事業の手伝などで、窮乏し、八百万石の大大名である幕府も役人が次第に贅沢を憶え、奢侈欲に流れて行くとその政費の収支の平衡を失い、無理に貨幣を改鋳したり、商人から借金をして一時しのぎをするようになった。
特に天明、天保の大飢饉は徳川幕府の寿命を縮める遠因となった。米騒動、百姓一撥に人心は荒れ、富の集中する都会では、刹那的な享楽主義に淫靡の風が世の上下を包んでしまった。
当時ポルトガルやオランダを圧えて東洋貿易を独占しようとしていたイギリスは、中国と交易して、日本に迫ろうとしていた。ロシヤも千島を侵し、更に北海道を手に入れようと窺っていた。そして徳川幕府にとっては獅子身中の虫ともいうべき水戸学の欝然たる興隆である。
水戸学即ち水戸藩学は、全沢伯民(安)、藤田東湖の碩学によって体系をなし、尊皇、勤皇をロにするものは挙って水戸に集った。その中心思想が国体明徴、皇道第一主義ということから勢い征服者である幕府を否認し、天皇の親政を正道なりと説くのであるから、幕府にとってこれ程恐しい思想はない。やがて安政の大獄があり、その報復として桜田門外で井伊大老が襲撃きれ、遂に薩長は聯合して倒幕の挙に出たのであった。 
慶応3年10月14日(1868)徳川慶喜は政権を天皇に奉還した。
この水戸学が回天の事業の原動力となり、封建制度の矛盾が人間的自覚を促し、西洋文化の刺激によって三百年の停滞を一気に乗り越えようとした国民全体の近代意識が維新の大業をなし遂げたといえよう。

維新の神道理論と国民の倫理

神道はもともと仏教に対して生れた言葉で今日神道といえば神社を中心とした日本の民族宗教だということを知っている人は多いが神道のもつ思想を知る人は少い。仏教の伝来(538)以前は、神道を神道と言っていなかった。当時日本には国土創生の神々や自然神、或は民族の祖先に対する信仰があったのみで、他に宗教がなかったからである。
神道用語以前の神道を古書によると「かんながら」 (惟神) 「かみながら」 (随神)といい、神の恩召しのままに随い行う道である。即ち政治の面では主権者天皇は神の摂理に従って天下を治め給う。下臣民はこの体制は神代より定まったことで此かも論ずる必要はない。神習いに習って化育の成果を見る。そこに神人融合のよき社会が生れ、他になにものも求める必要のない国家が持続される。こうした政治形態を故人は皇道と言い神道といった。また一方人間の生活面では、古書に「我が御世の事、能くこそ神習はめ」とあるように、神習うことによって生活の秩序を持てと教えてある。つまり神様の御事績御神徳を見習い自らの生活信条とすることである。
文明が進み人間の生活形態が変って来た今日においては、往時そのままの政治体制は勿論、神道思想においても大きな変遷があった。 
明治維新のように復古することが常態に復することであり、新生への原動力となったのであるが、その根底には、神道精神がふつふつと湧き出して人間の汚れ曲らんとする精神を矯めていたということも忘れてはならない。
明治維新の推進力となった国体観念は水戸学によって培われ、国学によって肥培され、薩長二藩の武力と相挨って出来上った。
新政の大方針たる五箇条の国是を天下に公表するに当って之を天神地祇に誓い、また太政官七科の上に神祇官を置いて神祇を尊重する古代の精神に復そうとした。この宗教改革は見事なもので、仏像をもって神体となし、本地と唱えて仏像を社前に掛け、或は鰐口、梵鐘などの仏具を以って飾った従前の神社よりこれを取り除き、また神号に仏号(菩薩、権現、天王等々)をつけたのを禁止して純一無雑な神道に立ち帰えらせた。これを後の言葉で廃仏棄釈といった。一千年に亘る仏教の日本布教の手段はここに大きく留めを刺されたともいうべきであろう。さらに社僧の僧籍にあるのを忌み…諸国大小の神社で僧形僧服で別当或は社僧などと称えている者はこの度の神仏混肴御廃止の趣旨に基き還俗の上、僧位僧官を返上し神主、社人の称号を用い、法衣を脱し、風折烏帽子、浄衣、白指貫を着用すべし―ときつい規制を施している。これは仏教に対する弾圧でも何でもないのであるが、国学思想に培われた皇国尊皇の思想が維新を神武の創業と見て、祭政一致の機構を立てる為神祇官を復活、神道諸家(例えば白川、吉田)等に附属していた神社を全部神祇官の所属にして上古の祭典をも復興させようとした。いわゆる純神道の標榜である純一無雑の神社の出現を画ったのである。
神仏判然の令が出て、全国の神社より一応仏教的な色彩が外され祭祀、祀典を興すことは出来たが、それだけでは何か物足りないものがあった。それは今までになかった神道(皇道)の布教と言うことだと気がついた。そこで明治2年7月宣教使の官を置き神祇伯(白川資訓)をしてその長官を兼ねさせ、初めて宣教という仕事が始った。 
明治3年正月3日、神霊鎮祭と大教宣布の詔が下された。
「神道は神明を崇敬し国民を愛する処から始まる。先づ天神八百万、地祇八百万、及び列皇の霊を神祇官に祀って祖先神の恵みに応えようとする。国民のすべては私と共に謹んでこの道にのっとり、神道を全うしてもらいたい」明治天皇の聖旨はこのようであった。また同時に大教宣布の詔が出されている。 
「謹んで国の初めを考える時、天神、天祖が立派な基を開いて下さって歴代の皇祖は厚く神を祭りその心でもって政治を正してきた、その結果、上下に敬愛親和のよき国柄が出来上った。処が中世以降時には逆臣が出て政道も乱れ、外教が入って治教も混沌としたが、維新の今日は百般改って心気一転すべき時である。先づ国の教えのもとである神道を興して。国民精神作興の基盤としなければならない。従ってここに宣教使を任命して神道の布教に当らせる。臣民共々このことを篤く心得るべきである。」 
この二大聖詔によって神道は愈々我国の国教として、天下の大教として宣布される時が来たのである。
宣教使は神祇官から出た宣教心得書に依り全国を廻り神職、村長、地方知名人等を集めて巡回布教をした。過去の神道は祀典が主体であり、神道といえば祭祀の儀式を以って象徴されて居たようであるが、それは宗教の末文化で、人知進化の文明社会においてはそれだけでは宗教といわれない。大教宣布の詔を契期として神道が少くとも教義学的なものを持つようになったことは神の摂理を知り、神明の何んたるかを考える国民を作るのに非常に役立った。明治4年神祇官は規模を拡大して神祗省になり、続いて教部省になった。この教部省になったのも大教布教の中核を堅持する為で、神祇官の在り方が祀典中心であるため、宣教使活動が充分出来なかった。それらの理由が潜在した神祇官に御鎮座の天神地祇八神の両座は宮中に御遷座になり、祭事は式部寮において執行することになった。したがって教部省の仕事は一段と教化活動に重点を置くことが出来るようになった。
教部省はさらに宣教強化のため、その中央機関として大教院を設け、各府県枢要の地に中教院が新設され、神道の統一的布教のセンターとした。もともと大教院は仏教側の提案で出たもので、彼等が排仏毀釈の対応策として神、仏、二道一致して外教(基教)に当るという口実で建案、これを教部省が許可して6年の5月二21日に講学機関として麹町紀尾井町紀州長屋に仮大教院を設け、後日之を芝の増上寺に移した。増上寺では大殿の須弥壇を取り、祭壇を設けて神官、僧侶合同で遷座祭を行った。程なく旧神祇官の八神殿が下賜され、これを神殿として天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大御神の四柱を奉斉した。当時、神道側の有力者には千家尊福(出雲大社国造) 田中頼庸(伊勢神宮大宮司)があり、仏教側でも渥美契緩、鈴木恵淳等著名な僧侶がこれに参画している。
かくて大教院は神道の総本山として皇道発揚に歴史的な役割を果した。明治7年には全国でその存立を闡明にしている。中、小教院2800、教導職数7240を擁した。このままで行けば世界の宗教史に類のない制度が出来たが、然しその組織上の重大な過失があり、早くも8年5月には大教院は解体を余儀なくされた。
それはたまたま7年頃より西洋思想が入り、古いものへの批判が高まって来た。いわゆる欧州より帰った真宗の僧侶、島地黙雷は、神仏合同の国教布教を不定見なるものと評して、先づ真宗系の宗派を大教院から脱退せしめた。これについで仏教側は相ついで大教院を脱することになった。それによって神仏合同の布教制度は崩れていった。これに代って8年3月神道事務局が創設せられ次いで大教院は神道側独自の講学布教機関となり名称も神道大教院と改称した。 
明治9年1月、当時は全国の教導職を四部に分けて統轄した。各部の管長は第一部千家尊福、第二部久我建通、第三部稲葉正邦、第四部田中頼庸等であった。これらの制度も後に祭神論争が起って崩れ去り、この論争を納めるために結局勅裁をあおぐこととなった。その結果管長に代えて14年2月有栖川宮幟仁親王を神道総裁に、副総裁に議官岩下方平がそれぞれ任命された。これというのも神道界の騒擾を治め、節を正し、皇道に瑕瑾なきを期するためで、如何に皇室が神祇に支えられ更に民心収覧のキイポイントが神道におかれてあったかがわかる。 
この年4月、事務局は駿河台北甲賀町に移った。明治15年1月24日、内務省は政教分離の通達を発し、神官の教導職兼務を廃した。祭神論争以来政府は、神社の宗教化に極めて神経質になり、国体護持の上から思想的論争をさけ、また国際信義や自由民権思想の輸入によって、信教の自由も考えなければならないし、さらにデモクラシーの思想は国民全体を政府の批判者に育てていった。そして近代文明における封建思想の打破は先づ神道界に現れたといってもよいであろう。

神道本局の誕生とその性格

明治15年3月には、有栖川宮は総裁を免ぜられたが、特に在京の六級以上の教導職が連署を以って御願いしたので再び神道総裁に御就任になった。同年5月には神宮教会以下五教会の別派独立があり、8月には麹町区飯田町に皇典講究所が創建せられ総裁宮がその総裁を兼務されることになった。明治17年8月太政官布達が発せられ、内務省が所管していた教導職の任免権を解放した。
ここにおいて神道も政府の手から一応離れて自由の身になった。総裁宮は専ら皇典講究所にその御名を見るようになった。
神道事務局では太政官布達に従って協議の結果従四位稲葉正邦を管長に推した。稲葉正邦脚は神道事務局創設当時からの中心人物で旧淀の藩主である。卿の敬神尊皇の至誠は実に偉大なもので明治の神道史にその業蹟は光彩陸離たるものがある。稲葉管長は就任と同時に、神道教規の草案を作成、分局長直轄教会長を招集し審議せしめその決議になったものを内務省に出願して認可を得た。これによって神道事務局は神道本局と改称せられ、半官半民的な従来の色彩を一変するに至った。  
教規第二条に「宮中所斉の神霊を奉戴し殊に天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、須佐之男神、皇孫命、大国主神、天津神八百万、国津神八百万の神を奉祭す」とあるのをみてもわかるように、その昔大教院の祭神論争で聖慮を煩し決定した宮中所斉の神霊の外に神道教学の思想的中心となる造化三神、並びに大国主神等を主神として祭り、神道の拠って以って立つところの理念中枢を判然とした。

神道各派独立後の神道本局

神官の教導職兼務分離により、神社と大衆の間にあった信仰的親和感も薄らぎ、宗教的救済も乏しくなるに従って、病的苦脳を持つ大衆や社会的不安を抱く人々はそれぞれの救いを求めて水が高きより低きに流れる如く独創的教会へ流れ込んだ。教会ではこれら悩める大衆を受け入れて教勢は日々発展を辿るに至った。中でも禊教は明治6年頃吐普加美講と唱えられていたものが、27年には信者の数も増大して本局から別派独立することになった。続いて33年には金光教会が別派独立を出願して許可され金光教を名乗り、また41年には天理教会が独立を許されたのを最後に、世にいう神道教派十三派が出来あがったのである。(黒住、修成、神習、大成、實行、扶桑、大社、御嶽、神理、禊、金光、天理、本局であった。)
当時の神道本局の幹事野田菅麿氏は幹部と議り、また金光教会の佐藤範雄氏、天理教会の前川菊太郎氏等と協議して、本局新築の案を立てた。この案は部下分局教会等の賛同を得る処となって浄財が集り、西麻布の今日の地に明治29年竣工落成を見ることが出来た。
この間日清戦争の一大困難に遭遇して国民は挙げて外敵に当った。この戦争を契機に、神道も世人の崇敬を高めることとなり、いよいよその内容の充実に拍車をかけることになった。
明治31年5月、初代稲葉管長は糖尿病に罹られ、同7月15日65才をもって世紀の波乱を乗り越えた偉大な人生を閉じられたのであった。
第二代管長には旧館山の藩主従三位子爵稲葉正善卿が就任された。幹事は依然野田菅麿、平岡好国の二氏で、管長補翼の任に当った。局の内外共に充実期にあったので、教勢の拡張を図るべく教師検定の規則を制定、人材登用の道を開いた。幹事野田菅麿氏は27年山口県の分局長であったのを抜擢して本局幹事に配した逸材で、本局教務の大刷新に大きな功績を立てた。其の後幹事を神崎一作氏に譲り四条畷神社の宮司となり、次いで官幣大社生国魂神社、さらに熱田神宮等の宮司となった。
明治35年3月、管長稲葉正善脚は肝臓病にて甍去なされた、67才であった。 
第三代は初代管長の御姻戚に当る旧膳所の藩主従二位子爵本多康穣卿が就任された。時あたかも日英同盟締結の年であり、露国の日本侵略を如何にかわすかと云うときで、英国と結び露国の勢力を満洲 (中国北部) から駆逐することを画ったが、露国宮廷内のタカ派擡頭によって極東の平和は見失れてしまった。37年2月8日旅順において日本海軍が第一戦の火蓋を切り、日露戦争に突入することになった。本局では、この未曾有の国難に際して全面的な奉任が行われた。
明治42年、大教の国家奉仕の功績が天皇の嘉みせられる処となって、三組金盃が下賜せられた。
明治45年2月18日、本多管長は御齢78才をもって至純の一生を閉じられた。この年10月には本局の教規、教則を改定して内務省の認可を得、これが施行された。この度の改正の主眼点は金光、天理の二大教会独立後の本局の在り方について各種の角度から充分討議されたもので、特に教院の性格、布教の体制については従来種々論議されたが、純度高い神道の布教は明治三年の大教宣布の詔勅の精神にのっとらなければならないとの観点で、神道本院を廃し、かっての神道大教院として再現、今日に至る神道教学の源泉として、また神道の高度理念の発生地としてその綜合的神道信仰の中核性を持続して来たのである。
神道本局の性格も次第に純度を増し、神道の宗教的普遍性を高めて行った。大正3年7月、顧問であった従二位子爵長谷信成卿が第四代管長となられた。
「西洋文明の浸潤は国民を華美、浮薄の風に流さしめ、利権、欺瞞、詐偽の社会現象を起すに至った。これはわが国固有の神道を忘れ、西洋の物質文明に魅せられた結果である。すべからくこの悪風を矯め、社会の教風を振作、人心を皇国本来の精神に培い、質実剛健なる気風を以って国体の擁護、国力の充実に貢献しなければならない」 ということで四綱領十四力条の規約を作り、「明道団」という組織を作り神道教師が国家社会に尽すための実践 運動が展開された。
大正11年1月、長谷管長は甍去され、幹事長の神崎一作氏が管長事務取扱の任につかれた。大正12年9月1日に関東大震災が起り、東京は未曾有の大災害を受けた。神道本局は幸いにも災を免れ、被災者の救助に局員全員が一丸となって当った。大正14年3月、管長事務取扱の神崎一作氏は、部下教師多数の推薦によって管長の任に就かれた。神崎管長は大山分局生徒寮に入り、権田直助翁に師事し、後哲学館東洋大学及び國學院等に学び、明治29年神道本局に勤務、稲葉、本多、長谷と三代の管長に仕へ、信仰、教学、教務共に深い造詣者であつた。
昭和9年4月には神道本局六十年祭が盛大に行われた。これに先立って60年記念事業の一環として、神殿の改築があり、また同年11月には祖霊殿の改築地鎮祭が森田幹事の斎主で行われ、宣教殿教務所の新築工事も共に進められた。一方六十年を記念すべく神崎管長執筆による「神道六十年史要」が出版され後世にその沿革と意義を伝えた。
昭和13年3月、神道本局はいうに及ばず広く神道界に、さらには宗教界に不滅の業績を遺された神崎管長は71年の生涯を静かに閉られ、神の御許に旅立たれた。明治29年神道本局に奉仕されてより42年間、至誠の人と呼ばれ、神道諸学は勿論、一般教養学に深い学識を持たれ、政府機関である宗教制度調査委員、神社制度調査委員等を歴任、またその著述も多く「大祓新釈」を始め二十二部の著書を公にされている。神崎管長亡き後は林五助幹事が管長事務取扱いとなり、翌14年四月管長選挙に当選して、第六代管長となられた。
その頃、軍国政府の言論思想、宗教に対する圧迫は次第に厳しくなり、遂に昭和15年宗教団体法施行に当り、当局より神道本局にも教名の変更が妥当ではないかということを勧告され、大会議を開き慎重審議の結果、明治3年の大教宣布の詔にのっとり、神道が国教と定められ、その聖旨に添うべく神道事務局が創設せられ、やがて神道本局(史学の上では「神道」をこのように呼んだ)に受け継がれた。その由緒をもって神道に大教を結び「神道大教」と改名した。また明治の昌代、神道を大教と呼びならした例にものっとっている。神道大教とは神道中の神道であるという内容をもったもので、神道が将来大いに発展する宗教であることを暗示している教名でもあった。
昭和20年3月、管長宅は空襲による業火に取り捲かれ、林管長は惜しくも禍神を諌言するため昇天された。
英明なる林管長は神道本局百年の基礎を作るために勇断をもって教名を「神道大数」と変えられ、神道本局組織を改更、学院を創設、信徒の参籠所なども建設して大いに神道大教の威信を高められたのであった。 
同年10月2日、管長代務者森田作次総監は、管長選挙により第七代管長に就任された。
森田管長をまっていたものは、敗戦による 米軍の神道(特に神社神道)を徹底的につぶそうという考えと、自失した国民が信仰からはなれて行く姿であった。
昭和26年4月3日、民主主義体制の国会において審議可決を見た宗教法人法が公布された。神道大教も同法によって教規を改正し、文部省の認証を求めた。文部省は27年2月18日これを認証したので、全国所属教場に新教規を施行、各教場ではこれに従って規則を作成し、所轄の知事の認証を経て、宗教法人として登記された。
この頃になると物心共に落着きをみせ、敬神の念も民衆の心に立ちもどりつつあった。
昭和29年3月28日、神道事務局創設八十年記念祭が全国教師信徒の奉賛で盛大に執行きれた。
戦後遠ざかっていた全国の教信徒は、この盛儀に会い大教院大神様の膝下に吾が生ける喜びを報告しようと馳せ参じた。戦後の忍従の生活に生き抜いたのは神の支え、さらに神の恵みによるものだと参拝者一同は深く心に合掌したことだろう。
31年春、神道大教会議は、大教院の本建築御造営の件を可決して、造営奉賛会が発足した。
37年4月21日、内外の工事は完了し、大教院は壮厳なる偉容を麻布の丘に輝かすことになった。この間全国の教師信徒の奉賛は続々と集り、当初危ぶまれた工事費も把憂に終ったのだった。
この間、森田管長は再度病に倒れ、32年11月には危篤状態となられたが、至誠神に通じ奇蹟的な恢復をみせられ、神恩に報いる悲願を達成された。
本局創設九十年祭りの盛儀が大教院の真新しい神殿で行なわれた39年5月23日、戦後の大きな苦難を乗り切ってこられた森田管長は78才の生涯を静かに閉じられた。
昭和39年9月25日、宣教部長の品田聖平氏が第八代管長に就任された。品田管長は永らく國學院大學に奉職された方で、明治の神道家父俊平氏の遺鉢を受けて心教大教会の主管となり神道本局に属してこられた。
柔道家、歌人としても一家をなし神道実践家としては豊富な経験を持っておられた。品田管長は大教創設百年祭を49年に迎えるに当って教団の現代的な発展を企画せられ、民族宗教神道をもって日本人の心の灯とするため教学を作興、諸施設を拡充して神道的理想郷を作られた。昭和49年宣教殿の火災により多くの書類等を焼失するも、53年10月21日には弥栄殿を竣工し、創立百年記念大祭を斎行。56年3月大教院霊殿を建立された。60年4月には創立百十年記念として、研修会館を造営、大教の現代的な発展を企画され、神道の面から日本人の心の灯とする教学を広め、真に神道の理想郷を作られた。平成4年10月12日品田管長は数々の業績をおさめられ、93歳で逝去された。
平成5年3月5日、大森徳春氏が第九代管長に就任された。大森管長は、永年神道大教宣教部長を務められ「神道の友」に教学の原稿を寄せられ、神道教化に力をそそがれた。父徳馬氏の意志を継ぎ、「あかつき大教会」を後継氏、教会長として多くの信者の救済と所属教師の育成に努められた。管長となられてからは、大教の発展に尽くされ、創立百二十年債祭を盛大に斎行された。平成10年8月27日大森管長は79歳の生涯を閉じられた。
平成11年3月15日板倉信之助氏が、第10代管長に就任された。板倉管長は易経に造詣が深く、大勢の弟子の教導に努められた。管長となられてからは、管長任期の制定や規則の変更をされ、創立百三十年記念事業として、境内の第一・第二鳥居を竣工し、「神道大教要論」を復刻された。16年4月には任期満了にて管長職を勇退された。平成16年7月14日90歳にて逝去された。
平成16年5月1日、尾立聖兆氏が第11代管長に就任された。尾立管長は「石切神宣大教会」の教会長として、多くの信者の道標として、教化に努められた。管長となられてからは、大教の将来を担う若手教師の育成にも尽力なされた。21年4月に任期満了にて管長職を退任された。平成29年8月13日93歳にて逝去された。
平成21年5月1日、木村剛正氏が第12代管長に就任された。木村管長の母君木村輝女史は、二度の首相を務められた海軍大将山本権兵衛伯爵の孫にあたられ、「うづめ大教会」を創建された。木村管長はその教導一筋の教会を継承され、管長就任後は大教の内部改革に力を注がれ発展の為、教義宣揚に尽力された。創立百四十年記念事業では、御本殿の耐震・改修工事や空調設備を整えた。記念大祭ののち神道大教所縁の明治記念館にて盛大に祝賀会も開催された。また各宗教組織間でも理事長・理事として、全幅の信頼を寄せられ、大教の道統や威信を広く内外に知らしめ、多大なる功績を残された。平成29年4月任期満了にて二期八年管長職を務められ退任された。

神道大教

本教は神道事務局の系譜を引継ぎ、畏くも有楢川宮幟仁親王殿下を初代総裁に推戴致し、子爵・稲葉正邦卿(旧山城國淀城主)が初代管長に就任されるに及んで、単に「神道」と称し、傘下教会・神社は総て名称に神道を冠しました。宗教概念上の神道と区別する為、特に「神道本局」と称され、昭和十五年の宗教団体法施行に伴い現在の「神道大教」と改称し現在に至って居ります。

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授与品

神符御守交通安全御守破魔矢黄楊守り絵馬土鈴

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ご参拝・御祈祷をご希望の皆様へ

受付時間:9時~16時。願意:厄除、家内安全、交通安全(自動車のお祓い)、商売繁盛、社内安全、社運隆昌、営業繁栄、工事安全、方除、必勝祈願、無病息災、病気平癒、安産祈願、身体健康、入学祈願、心願成就、その他。初宮詣、七五三詣、厄除祈願、自動車祓。出張祭典:地鎮祭、棟上祭、竣工式、神棚祭、神葬祭、年祭。

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行事紹介

❖ 月首祭 毎月1日❖ 中旬祭 毎月15日❖ 月次祭 毎月21日《 年間行事 》歳旦祭1月1日月次祭 春分霊祭3月21日春季例大祭4月21日月次祭 夏越大祓式6月21日月...

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神道大教全国神社教会

北海道❖ 函館敬神大教会 工藤 隆三❖ 札幌八幡宮 菊池 重敏❖ 金刀比羅神社 吉住 政博❖ 出雲神社 池端 明美❖ 南大夕張神社 菊池 重敏❖ 伊邪那岐八幡日光教伝所 ...

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リンク

❖ 出雲大社教❖ おほもと 宗教法人 大本❖ 黒住教❖ 金光教❖ 實行教❖ 神道修成派❖ 神理教❖ 扶桑教❖ 禊教❖ 教派神道連合会❖ 神社本庁❖ 日本宗教連盟❖ 國學院大學

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神道学院研修会

神道大教神道学院では、原則的に年1回、夏季に本教の有為の教師、教場後継者育成のための研修会を開催しております。
カリキュラムは、各種講義と祭式。
一人一人が理解と習得が得られるよう段階的な実習に務めております。
祭儀においては流麗なる祭式動作、均整のとれた行事所作を学び、修祓実習、神饌献撤、祝詞奏上、各所役、後取等、一連の動作祭典奉仕ができるように指導しております。
また、雑祭式としては、地鎮祭・宅神清祓・葬祭等の特定祭儀他などについても、講義、指導しております。
研修会修了者におかれましては、更なる精進と神道教化の活躍を希望してやみません。
皆様のご参加をお待ち致しております。

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季刊『神道の友』

『神道の友』は年4回発行しています。購読をご希望の方はご連絡下さい。 最新刊 令和5年秋冷号(10月21日刊)PDF   バックナンバー令和5年盛...

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春季例大祭

平成31年4月21日斎行

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研修会風景

令和元年8月22~28日開催...

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天徳(宇宙観)

宇宙のはかり知れない広がりの中で、天体の動きは一定の法則に従って整然と活動している。手近かな例を取ってみれば、地球が太陽の廻りを365日と六時間かかって廻っている。そして...

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神道大教の紹介

神道大教の由緒とご祭神について❖ 純粋神道を継承本教は神道事務局の系譜を引継ぎ、畏くも有栖川宮幟仁親王殿下を初代総裁に推戴致し、子爵・稲葉正邦卿(旧山城國...

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神道大教の歩み

明治百年を契機として、わが国にも次代への反映に向かう一つの転機をつかもうとしている。この時期に当たり、文字通り明治百年を歩んできた「神道」の歴史は、長い封建制から脱した日本民族の...

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秋季例大祭

令和5年10月21日斎行

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社殿・施設紹介

参道本殿内本殿霊殿霊殿内第七代管長歌碑第八代管長歌碑手水舎弥栄殿研修会館神木授与所...

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夏越大祓

令和2年6月21日斎行

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地恩(世界観)

天之御中主神の御神徳(宇宙法則、自然現象)は地球上でみる限り2元的(陰陽)な分化活動となり、色々な物を産み出す働きとなって、われわれの目の前に現れている。その陰陽の働きを...

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写真に見る大教院の幾星霜

はじめて仮大教院が設けられた芝増上寺芝増上寺の大教院は、増上寺火災の為、一時芝東照宮に移った神道大教の前身ともいうべき明治政府の管掌による「大教院」 は、明治6年...

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宝物紹介

✿ 有栖川宮幟仁親王の御親筆による令旨有栖川宮幟仁親王の御親筆による令旨「伏て惟るに」は、明治14年2月、親王が神道総裁に就任と同時に教導職に下されたもので、総裁宮は、...

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清浄(人生観)

前の地恩の項でのべましたように、地上の現象はことごとく陰陽あり、なにごとも限りあり、差別があります。人間の生命にしても、貧富の差にしても必ずなるべき原因があります。それは...

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歴代管長のモニュメント

✿ 神道大教を興隆させた人々第1代管長稲葉正邦卿初代管長稲葉正邦卿は、旧淀藩主で、徳川幕府にあって、京都所司代、老中職、国内事務総長などを兼ねられ、家茂将軍の下で...

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月次祭

平成31年1月21日斎行 本殿祭 霊殿祭

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管長・役員紹介・組織図

✿ 第十三代管長 菊池重敏(きくち しげとし)昭和28年、360年以上続いている神職の家柄に生まれる。國學院大學文学部神道学科卒業、神道大教本局(東京)にて書生として奉仕...

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光明(処世観)

人間が真に神(宇宙の法則)の子(必然的に産れきた)であることを悟り、自己の尊厳性と他人の尊厳性を知った上で、清浄の心をもって生活することができたならば、祖先(神)が願い求...

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皇典講究所から國學院へ

皇典講究所(現神社本庁)および國學院大学は、神道大教とは切っても切れない関係にある。 というのは、明治3年、大教宣布の詔が発せられ、統一的な神道の宣教機関として生れたのが神道事務...

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四大信条容儀

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神道大教教歌

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明治の御世と神道大教

《神道大教 第八代管長 品田 聖平》明治時代は、日本が極東の小孤島から世界の大国にまで発展した黄金時代とも言える。しかし、その初期は、絢爛たる欧米文化に眩惑され、日本人の...

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年譜

1868年(明治元年)3月 神祇官復興の布告、神仏判然令の発布1869年(明治2年)3月 行政官に教導取調局を設置7月 神祇官設置、宣教使を置く1870年(明治3...

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教派神道とは

幕末から明治維新を経て、文明開化による新たな社会変化の中、絢爛たる欧米文化に眩惑され、日本人の自覚を喪い、日本固有の精神は失われ、国家の基本まで揺がうとした危険な時期があった。畏...

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